• 【苗場25周年企画(1)】苗場フジロック:オリジン、苗場にフジロックがやってくるまでを振り返る


    1999年に苗場ではじめてフジロックが開催されてから、今年で25年目を迎える。そこでフジロッカーズ・オルグでは『苗場フジロック25周年企画』と題し、この25年間の苗場フジロックを様々な視点から振り返っていく連載企画をスタート!

    初回となる今回はそのイントロとして、フジロックが苗場ではじめて開催されるまでのプロセス、そしてはじめての苗場でのフジロックを終えた地元の人たちの心境の変化を、フジロック創始者である“大将”こと日高正博氏(以降、大将)や地元住民の人たちの過去のインタビューからの発言を交えつつ、改めて振り返ろうと思う。紆余曲折を経て実現した1999年の苗場フジロックで人々の心に生まれたものは一体なんだったのか?早速振り返っていこう。

    【苗場フジロック25周年企画 (1) 】苗場フジロック:オリジン、苗場にフジロックがやってくる!

    Photo by Masami Hara

    混沌の初年度天神山、熱狂の2年目豊洲、そしてフジロックは次のフェーズへ

    フジロックがイギリスのグラストンベリー・フェスティバル(以降、グラスト)をモデルにして、大将が立ち上げたというのは有名な話だと思う。「日本にもグラストのような“フェスティバル”を!」という大将の野望の結実、その第一歩となったのが1997年天神山での第1回フジロックだった。そこで起こった様々なシーンは、現地で体験した人やのちに映像で見た人など、フジロッカーたちの脳裏に今も焼き付いているのではないだろうか。

    そんな天神山でのフジロック初年度を経て、2年目は東京の豊洲で開催され、灼熱のグリーン・ステージで繰り広げられたTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの熱狂ライブや、ホワイト・ステージのイギー・ポップがステージ上にお客さんを上げまくって自身が引いてしまっていた強烈なエピソードなど、今でも語られるエピソードが数多く生まれた。初年度からの学び(その地域の特性を考慮した上での対策の必要性)を活かすという点においても、夏の東京の暑さに対する徹底した対策が施されており、総じて良い評判が得られた回となったのだが、大将は当時を振り返り「街の中じゃなくて山の中でやるのがフェスティバルだから。便利なところで、というのはダメ。自分たちで作り上げるのがフェスだから」と語っている。それは現状に満足することを良しとしなかったことの表れだろう。そしてフジロックはネクストフェーズへと移行する。

    【苗場フジロック25周年企画(1)】苗場フジロック:オリジン、苗場にフジロックがやってくるまでを振り返る

    豊洲・東京ベイサイドスクエアのグリーン・ステージ | Photo by Mitch Ikeda

    苗場とフジロックの接点は意外なところから生まれた

    「苗場でフジロックをやれないか?」

    ある日、フジロックを主催する株式会社SMASHのもとに連絡が来た。それはなんと苗場プリンスホテルの親会社だった株式会社コクドの堤義明オーナー(当時)からの逆オファーの連絡だった。株式会社コクドといえば苗場プリンスホテルを運営していた親会社で、超がつくほどの大企業。そして当時オーナーだった堤氏は、米経済誌『フォーブス』が発表する世界長者番付で1987〜1994年の間に6度も世界一となった超ビリオネアだ。

    そんな逆オファーの背景を、大将が当時の話を元に少し掘り下げてみようと思う。ことの発端は、豊洲が終わった後に堤オーナーが目にした3万人が会場に集結した豊洲会場の空撮写真だった。あの時会場にはたくさんのヘリコプターが飛び回っていて、そこから撮られたお客で埋め尽くされた会場の光景のインパクトの大きさたるや想像に易いだろう。さらに堤オーナーは「主催者の日高はそれでも来年(1999年)のフジロックは山の中でやりたいと言っている」という話をどこからか聞きつけ、それら数少ない情報からオファーを決断、後日フジロックを一緒に運営していた株式会社ホットスタッフ・プロモーション(大手プロモーター企業)にオファーがいった──というのが逆オファーの経緯である。

    しかし、そんな逆オファーに対して、大将はただ一言「出来ない」と答えたという。その事実だけを今見たら意外な回答のようにも思えるが、その理由を知れば大将のその判断は腑に落ちる。

    もし苗場で出来るとしたらスキー場で、しかない。でも、あそこにステージを作ったら5000人しか入らないよ。だから「出来ないよ」と返事をした。

    出典:富士祭電子瓦版

    それは当時の苗場スキー場周辺の環境を“そのまま利用することを前提”にして考えれば、自然な回答だろう。

    けれど、当時のコクドの担当者は引き下がらなかったという。コクドの本社ビルでコクド側から逆プレゼンテーションを行ったり、苗場でもう一度説明会を開いたりして、懸命にアピールした。それでも大将は一向に首を縦には振らなかった。ところが、担当者が苗場スキー場エリアの地図を広げてプレゼンし始めると、大将の反応に変化が表れ始める。

    Photo by fujirockers.org

    苗場・苗場プリンスホテルと苗場スキー場 | Photo by fujirockers.org

    苗場現地の光景を見て広がっていく日高大将のイマジネーション

    コクドの担当者が差し出したその地図を見て、大将はステージが1つ組めそうなエリアを見つけ出したのだ。皆で地図に記されたその「ステージが1つ組めそうなエリア」へと向かうと、その道中で「ステージの様々な可能性」を大将たちは目の当たりにする。

    駐車場を見て、あそこにへリポートがあるだろ?「ああ、ここだったら1個ステージが出来るよ。ここだったら2万人か3万人は入るか」なんて言って、パッと横を見たら民家だらけなんだよな、今でもそうだけど。それで「やっぱり出来ねえな、ここでは」ってなった。すると彼らが「駐車場とゴルフ場とテニスコートがあるので見に行きましょう」って言うから、行ったんだよ。それで“グリーンステージ”の場所を見た。今とは全然違うんだよ。木が植わっていて、ゴルフ場だからバンカーがあって、テニスコートがあって、川を渡ったところが(ゴルフ場の)グリーンだった。俺はその場所を見て、イマジネーションしたんだよ。それで「ここだったら出来るよ」って伝えた。メインステージが出来るってね。「でも注文がある。全部ぶっ壊してくれ。そうじゃなきゃ、出来ない。ただ木は切らないでくれ。木は抜いて他の所に移してくれ。芝はそのまま残してくれ」って言ったんだ。

    出典:富士祭電子瓦版

    長年運営してきたゴルフ場を全部無くすこと、それはかなり無茶で無謀な要求のようにも思えるが、夏に利用率が下がるゴルフ場を維持費を出して管理し続けていくよりも、その期間中にイベントをやった方がコクド的にも地元的にも経済的効果はある、それを見越しての条件だったと思われる。とはいえ、相手は超がつくほどの大企業、天下のコクドだ。そう簡単にことは運ばないと思われたが、なんとそこからたったの3日で「やります」と回答が来たのだ。これによって、苗場でのフジロック実現に向け一歩前進したわけだが、まだクリアしなければいけないことがある。それは、地元住民の人たちに「フジロック」を受け入れてもらうことだ。

    Photo by fujirockers.org

    苗場・グリーン・ステージ後方エリア | Photo by fujirockers.org

    日高大将と苗場の地元住民の人たちとの2ヶ月にも及ぶ対話

    フェスティバルは会場と出演アーティストが決まれば実現できるなんて、そう簡単なものではない。地元の人たちとの協力関係や信頼関係があってはじめて成り立つものであり、それも含めてフェスティバルである。しかし、その関係性をゼロから築き上げるのは決して容易ではない。過去2回のフジロック開催などにより芽吹き始めた日本のフェス文化ではあるが、1998年当時のその認知度は決して高いものではなかったように思う。そんな中で「こういうものが来ます。そしてお金も儲かりますよ」と言われても、「はい、やりましょう」なんて簡単に言えるはずもない。初めての開催で、まだ実績がないからリアルで何が起きるか想像できないし、ポジティブなイメージよりも、ネガティブなイメージの方が強くなってしまうのは人間の心理として容易に理解できる。

    例えば「ロック・フェスティバル」という言葉の字面から、当時の視点でどんなイメージを抱くだろうか。とある現地住民の方はオルグで行ったインタビューでこう答えている。「すごくロックな人たち、タトゥーやピアスや金髪のヤバそうな人たちが、たくさんやって来たら、一体地元はどうなるんだ?」「大勢の刺青を入れたとんでもないかっぱらいが束になってやってくるなんて、簡単に受け入れ難い。我が家の安全の方が大事だ」。その一方で、別の視点からも不安の言葉も出ていた。それは地元で民宿を経営されている方からの不安の言葉だった。「それまで学生さんの合宿しかない静かだった夏が、いきなり風変わりするかもしれない」。それは、今の日常が変わってしまうことへの不安だ。

    しかし、そんな地元住民の人たちの不安な心情を大将も理解していた。だからこそ2ヶ月間苗場に住み込み、毎日現地の人と会って、お酒を酌み交わしながら対話を重ねたのだ。すると、地元の人たちも「いいんじゃないか、やらせてみれば」となり、森林を伐採せずに観光資源として開発していくというスタンスでいくという方向で、話はさらに一歩前進していった。

    Photo by Sora Mori

    Photo by Sora Mori

    「森と音楽の共存」を実現するため、自然と真正面から向き合うこと

    そこから「森と音楽の共存」をひとつのテーマとして、森林を伐採せずに観光資源として開発していくスタンスで、会場のデザイン設計が始まった。ここから大将のイマジネーションが爆発する。雪が積もる冬の苗場に訪れた際、雪が一面に積もった“真っ白い”広いスペースを見た大将がイメージしたのが“ホワイト・ステージ”。そして、雪が溶け切った5月、更に奥地に向かった先に向かった大将が見つけたのは、森林に囲まれた広い駐車場。そこを見て瞬間的に口にしたネーミングが“フィールド・オブ・ヘヴン”。こうして、どんどん苗場フジロックの会場イメージは広がっていき、会場全体のレイアウトを含めたデザイン、現在のフジロックのひな型と言える形が、苗場初年度の1999年に出来上がった。

    そんな紆余曲折を経て、苗場でのフジロック開催が決定したわけだが、初めての開催で何が起こるか分からない懸念や不安があるのは運営側も一緒だ。だからこそ、やれる調査や準備は徹底的に行われた。

    <フジロック>はさ、自然との共生をテーマにしているけど、要は環境破壊にもつながりかねないっていうことなんだよ。だから、何をやらなきゃいけないか、だよ。金が儲かるから環境破壊をやってもいいのか、ってことに対して、出来る手は打つってことなんだよ、本当に。たとえば300キロ以上離れた所に天然保護の大鷲がいるんだよね。それで、どの辺まで飛んで来るのかを調べた。卵はどうなるのか? とかね。それで、ここ(フジロック会場)までは来ないって分かった。あとは熊、鹿、猿とか、動物たちをいじめたくないからな。「3日間だけ我慢してね」って、対応はするからってことだよね。

    出典:富士祭電子瓦版

    「森と音楽の共存」を実現させることは、本当に簡単なことじゃない。そこに自然や生き物がいる限り、それらにフジロックがどんな形で影響を及ぼすのかを徹底的に見て対処することもまた理想のフジロックにとっては大事な要素なのだ。ここで活きたのは、過去2回のフジロックでの様々な経験から生まれた視点だっただったように思う。天神山で起きたゴミの問題。この問題を俯瞰的に捉えたとき、そこにあるのは環境問題である。ゆえに翌年の豊洲では場内外共にゴミ拾いが徹底された。場内はカバーできるが、場外に関しては自分たちで対応する必要があったため、お客さんが帰った後もステージから駅まで、スタッフの手によってゴミ拾いが行われた。そういったことは、環境保護という点においても、地元と共生する点においても、今の苗場に繋がっているのだ。

    Photo by fujirockers.org

    Photo by fujirockers.org

    苗場でフジロックが25年間続いた要因、それは「森と音楽…そして人の共生」があったから

    苗場での初めてのフジロックが終わり、開催前は懐疑的だった地元の人たちにも印象や心境の変化が生まれていた。それらは、とてもポジティブなものだった。

    地元住民の人たちがまず感心していたのは「来場者のマナーの良さ」。フジロック開催前、オフィシャルサイトに「自分たちのことは自分でやろう」という注意喚起が掲載されていて、それを見たユーザーから自発的に「絶対ゴミを捨てないようにしようぜ。でないとフジロックが無くなってしまう」という書き込みがあった。「フジロックを守りたい!」そんなフジロッカーたちの強い思いは、1999年当時の来場者のマナーを守るという行動にも表れていたし、そんな姿勢は地元住民の人たちの心に響いていたのではないかと推測する。

    実際当時テレビ朝日系列で放送された番組『夏の巨大音楽フェスティバル解体新書』のインタビューで、苗場プリンスホテルマーケティング支配人だった渡辺浩氏(当時)は「皆さんのマナーが良くて、自然の中で楽しんでもらってる姿を見ていいイベントだなと思った」と口にしているし、苗場旅館組合長だった佐藤達志氏(当時)もまた「みんな理路整然としているんですよ。コンサートに来ている青年たちが。道でゴミを拾ってたり。えーーっと思ったんですよ。全然考え方が変わりました」と関心の言葉を包み隠さず話していた。

    しかし、地元住民の人たちの心を動かしたのは、それだけではない。それは「様々な人々との大きな繋がりができたことの喜び」だ。過去のインタビューに多く見られたこれら“人との繋がり”を示す言葉、その中には“苗場フジロック・コミュニティ”に関わる全ての人への穏やかで温かい想いが詰まっているような気がした。

    【苗場フジロック25周年企画 (1)】苗場フジロック:オリジン、苗場にフジロックがやってくるまでを振り返る

    Photo by 白井絢香、Masahiro Saito、Riho Kamimura

    この記事の最後に、オルグで行った地元住民の人たちのインタビューから、印象的だった言葉をいくつか紹介して締めたい。そこにはフジロックへの温かい想いがあるので、ぜひ読んでいただいて、フジロックへの想いを地元住民の人たちと共有し、今年のフジロックへ思いを馳せて欲しいと思う。

    「フジロックって、たくさん人も来て、お金にもなるけど、それ以上に色々な人と関わり合いになれることが良いんだよなぁ。人の道ってお金じゃないんだよ、人との繋がりなんだよ。友だちって作ったら一生ものじゃないですか。だからねぇ、フジロックは人との繋がりができて、一番大きい存在なのかなって」


    「フジロックって、やってて面白いよ。色々な人間と友だちになれるし、深い付き合いにもなるし。だって、フジロックがなければそんなことも無いわけじゃない。フジロックが何なのかって言うと、友だちの付き合いの輪が広がっている。(フジロッカーズ・オルグの)皆さんもそうだけど。会ったら『おーい!』って言えるよね」


    「フェスティバルってお祭りじゃないですか。自分の故郷に帰るのと一緒で、私は爺なんです、困ったことがあったらなんか言ってくれよ、と。皆さんも来て頂けたら『お〜い金六さんっ!』て声かけてくれないかって、それが親しみの始まりで、楽しみの始まりなんだ」


    「フジロックに来た人が『秋の苗場も良いよね』とか『冬も一回来てみようか』とか(略)夏も良いけど冬もいきたいっていう人が増えているんです。どっぷりはまったフジロッカーの人って1年待てない方が多いですよね。終わってから次のカウントダウンを始めている人もいて。苗場はいつでも来れる場所なんで、よかったら季節問わず遊びに来てもらいたいですね」


    「たくさんの人が来てくれるっていうのと、色々な人が喜んでくれるっていうのがとにかく嬉しい。飛び抜けて嬉しいのは、苗場に帰って来たっていってくれる人が多いんですよ。第二の故郷的な感じで。『ただいま!』って。そうするとこちらも『おかえり!』って。たくさんの人が来てくれて、喜んでもらえれば嬉しいなと思います」


    「うち(宿)のお客さんは、フジロック開催時から宿泊した方がずっとリピートして来てくださっているので、最初は20代だった子が、30代後半になっていて、年に一回の再会というのがすごく嬉しいですね。だんだん年を重ねていくと『今年はこういうのが出るから見に行った方がいいよ!』とかお客さんが教えてくれたりね」


    「フジロックが来ること自体が楽しみですね。だって、お祭りですから(笑)。苗場食堂に毎年来てくれる人の顔を見るのも楽しみだし、芸能人の方も長蛇の列に並んで買ってくれているのを見たりすると嬉しいですね」

    25年目の苗場フジロックまで残り3ヶ月を切りました!フジロッカーズ・オルグでは引き続き、苗場25周年企画の記事を続々公開していきます。乞うご期待!

    text by 若林修平

    <参照元一覧>

    フジロック生みの親、日高正博氏インタビュー 『後編:フジロック ついに約束の地、苗場へ』(富士祭電子瓦版)
    苗場20th特別インタビュー「フジロックと苗場を繋ぐ人」 師田冨士男さん編(2018/05/14掲載)
    苗場20th特別インタビュー「フジロックと苗場を繋ぐ人」師田輝彦さん編(2018/05/21掲載)
    苗場20th特別インタビュー「フジロックと苗場を繋ぐ人」伊藤長三郎さん編(2018/05/28掲載)
    苗場20th特別インタビュー「フジロックと苗場を繋ぐ人」大熊文弥さん編(2018/06/04掲載)
    苗場20th特別インタビュー「フジロックと苗場を繋ぐ人」佐藤高之さん編(2018/06/11掲載)
    苗場20th特別インタビュー「フジロックと苗場を繋ぐ人」梅沢英夫さん編(2018/06/18掲載)
    僕たちにとって音楽フェスってなんだろう?-音楽フェスが地元にやってきた日-(2019/07/14掲載)

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