• フジロック 苗場20th特別インタビュー「フジロックと苗場を繋ぐ人」伊藤長三郎さん編


    苗場でのフジロック開催が今年20回目の節目を迎えます。そこで今回、節目を迎えた苗場とフジロックを繋いでいる人たちにインタビューを敢行しました。20年という歳月を経て、苗場の人々が見ているフジロックの姿は一体どんなものなのか。そして苗場にやってくるフジロッカーに対しては、どんな思いなのでしょうか。第3回目のインタビューは伊藤長三郎さん(いとう ちょうさぶろう:通称・以下ちょうさん)と奥様の徳子さんです。ちょうさんご夫妻は、シュプールイン苗場という民宿を昭和52年から経営し、苗場の環境保全活動を推進するボードウォークにも積極的に関わっており、多方面からフジロックを支えています。そんな夫妻に苗場の歴史や人との繋がりをお聞きしてきました。フジロック記念館なんて話も飛び出しましたよ!

    伊藤長三郎さんと奥様・徳子さん | Photo by 白井絢香

    伊藤長三郎さんと奥様・徳子さん | Photo by 白井絢香

    ─ 自己紹介をお願いします。

    ちょうさん:シュプールイン苗場という宿屋をやっています。初めて苗場に来たのは昭和52年、27歳のときにサラリーマンを辞めてきました。自分で何かやってみようかな、という思いがずっとあったんですけど、サラリーマンだけではちょっと物足りなく、他のことを挑戦してみたいという気持ちがありやってきました。苗場に来たら同じ世代の人たちが10人くらい、話が合いそうな人たち、私と同じく県外から来ている若者がたくさんいました。つくし亭のお父さん、ハイジの親父とか、ワイワイ、ガヤガヤしていた若者がウロウロしてましたね。

    ─ ちょうさんのご出身はどちらですか?

    ちょうさん:山形です。

    ─ なぜ苗場を選んだのでしょうか?

    ちょうさん:元々山形の育ちということもあって、スキーが好きでずっとやっていました。新潟にも親戚付き合いみたいにさせてもらっている民宿があって、お茶やお酒を飲みながら「何かやりたいね、やりたいね」っていう話から、どうせやるなら苗場がいいんじゃないかというのがきっかけです。

    フジロックの開催前から苗場を支えている施設の誕生秘話

    Photo by 白井絢香

    Photo by 白井絢香

    ─ ちょうさんはフジロックとどのように関わっていますか?

    ちょうさん:えっとね、俺も町内でいろんな役をやっていたんだけど、ちょうどフジロックの検討が始まる頃は旅館組合の中でその話題を聞きました。俺は行かなかったんだけど、苗場として調査団を派遣して、河口湖やお台場の調査に行ってもらって、その報告を受けたかな。当時、閉鎖的な苗場としては、いかにすべきか考えたんだけど実はほとんどの人は反対でした。それが1998年か。そんな話が出て、1999年からスタートですよね。

    オレンジコート跡 | Photo by Masami Munekawa

    オレンジコート跡 | Photo by Masami Munekawa

    ちょうさん:その頃、私は別のグループとして苗場グリーンランドという、フジロックの会場でいうと(旧)オレンジコートの部分が一部にあたるんだけど、1986年に国から10万平米借りてスポーツ施設を作る活動をしていました。冬に限られる苗場スキー場に依存しないで、将来に向けて地域として自立したいな、と。夏場にも生活の拠点を作りたいということで、86年にオープンしました。俺が確か33歳か34歳のときかな、オープンの5年前くらいから、国の林野庁や町との交渉、メンバー勧誘を中心に行っていました。

    ─ (旧)オレンジコートの奥にはサッカーゴールがありますけど、そのグリーンランドで行うスポーツはサッカーだけですか?

    ちょうさん:総合スポーツ施設ですね。ですがスポーツによって運営が難しいのもありました。特に陸上は当時ロサンゼルス・オリンピック代表の不破弘樹さんとか、トップクラスの選手が合宿に来ていただいたんですが、だけど陸上競技はとても難しい競技で、サッカーみたいに団体行動ではないんですよ。陸上の競技種類、またはアスリート個人によって考え方が違って、食事の食べる量とか食べるものとか、時間とかみんな違う。選手それぞれ個別に対応しないといけないっていうのが運営側からすると対応が難しいなというのがあって、だんだんとサッカー中心になっていきました。今年でこの施設も34年経つんですけど、計画しているサッカー大会が今年で32回目、この施設で合宿した選手からJリーガーも50人近く生まれました。さらに時代的にもちょうどJリーグが93年にスタートしたので、土のグラウンドでもみんな喜んで来てくれました。2000年くらいから人工芝が普及してきたので、時代に合わせて今年は人工芝を作ろうと今準備しています。

    そこに来た「フジロック」という新しい風

    Photo by 白井絢香

    Photo by 白井絢香

    ─ グリーンランドに加えて、フジロックが来たことによって苗場に変化はあったのでしょうか?

    ちょうさん:ある、ものすごいある。グリーンランドを使ってとにかく自立しようとしていたけど、バブルが弾けた頃から冬のお客様も減ってきたから今はフジロックのおかげで生きているようなもの。冬だけでなく夏も仕事ができているかな。そういえばフジロックが始まった99年から3〜4年間、場外でお店をやったんだ。ビールとか、お酒とか食べ物を作って。色々いいこともあったけど、悪いこともあって。路面店みたいなことを4日間経験できるということは良かったけど、在庫を抱えてどうのこうのっていうのが素人なのですごく苦労した。天気で売れなかったりさ(笑)。

    奥様・徳子さん:今考えれば、できないと思うんですけど、当時は娘たちもいたので学園祭みたいなノリでやったんですよ(笑)。

    ─ どんなものを出していたんですか?

    ちょうさん:手作りのものを出したかったので、鶏のトマトソース煮とライスのセット、ソーセージとかも出したかな。あとはお粥が食べたいとかでそんなのも出してたっけな。でも天候や気温に影響される、冷蔵庫は持っていけないとか、大変だったけど楽しかったな。

    学生が場内駐車場で運動している風景

    学生が場内駐車場で運動している風景

    ─ その時、宿はクローズしてたんですか?

    ちょうさん:そうそう、グリーンランドにくる合宿のグループはフジロックが苗場で開催するようになってからは、子どもたちが集中できないんじゃないかという思いもあって、会期が終わってからの合宿にしようという傾向だね。

    苗場の人々にもたらしたフジロックの影響。実現なるかフジロック記念館?!

    ─ フジロックでの経済効果は大きかったですか?

    ちょうさん:それも感じるね。うちの場合は駐車場が広いわけでもないので、最初から宿泊の人に駐車場でお金をとるという考えはなかったし、部屋のキャパシティも限られてるけど、それでも開催から20年間って考えてみればね。こんな小さい宿でもそれだけの経済効果があったから俺はすごい感謝してる。協会の会議の中でフジロック記念館を苗場に作ろうと声をかけているんだ。どこがいいのかって3年前から言ってるんだけどね。

    ─ フジロック記念館ができたらフジロックに来ているお客さんが期間以外にも苗場に来ることに繋がるかもしれないですよね。

    ちょうさん:言ってることとやってること、人の評価ってそれぞれみんな違うけど、言ったことよりやったことがその人の実績になると感じているから、スタート時点から関わっていた人には頭がさがるよね。周りに「ああだ、こうだ」って言いたいこともあるけど、周りが聞いてないこともあるから、我慢が多かったと思うんだけど、そのひたむきな姿、功績っていうのはこのフジロックにおいて最大だね。

     

    次ページへ:ボードウォークのお話、そしてフジロッカーの変化についてお聞きしました。

     

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