BRAHMAN・TOSHI-LOWインタビュー後編 3.11のあとで
- 2013/11/19 ● Interview
TOSHI-LOWインタビュー後編です。震災から2年半経った今、アーティスト活動と並行して復興支援を行うという彼の姿勢についてお話を伺います。
2011年3月11日から2年半が経ちました。この話題自体を見かける機会が少なくなり、「原発とかの問題はあるけど、被災地はもうだいぶ調子取り戻してきたんじゃない?」と考える人がいてもおかしくないような状況です。が、“震災後”はまだ終わっていません。その現状に向き合い、幡ヶ谷再生大学、東北ライブハウス大作戦といった活動を通じて支援を行う彼の話をお届けします。(前編「彼とフジロックとその“変化”」はこちら)
音楽をやめようと思っていた震災前
ーこれまではフジロックやバンド活動についてお話を伺いました。そこでお伺いしたいのですが、ライブやフェスティバルの運営といったさまざまな形で常に挑戦する、そんな姿勢は自分のためですか?それとも届けたい人がいて、そこに向けて発しているもの?
最後は圧倒的に自分自身に届けたいんだと思う。内包するものの中には当たり前だけど他人がいて、自己の中に他人の目があり、それは自分の目でもあり…それが複合的に絡んでいくものだと思うんですよ。表現てそういうものだと思うし、自分を喜ばせたくて人にも何かを与えたい。別に何十万、何百万の人に同時に売れなくたって、本当にたったひとりの人が自分の最期に俺らのCDを棺に入れてくださいって言ってくれたら俺はミュージシャンとして満足だと思っている。で、そういう届き方をしたいっていうものの現れがライブ。だから結果ずっとゴールをやっているというか、ずっと夢をやっている。
ーライブにしても何にしても、TOSHI-LOWさんが外に出していくものが東日本大震災以降、具体的なアクションとして表に出てきていたように感じます。
心の分量が変わっているわけじゃないけど、見えやすくなったとは思います。もともとアウトプットの分量はあれくらいあったんですけど見えやすいように出してないから、結果、無いと一緒って言われてもしょうがなかった。
実は2011年、震災前に音楽をやめようと思っていました。なんかもう食べていくためにだけ音楽やっちゃってるんじゃないか、自分が最初に音楽目指して、バンドやりたいっていう志と違う大人になったんじゃないかって強烈に苦しんだ時があって。そうすると自分の作ってくものも止まっちゃって。何を書いても「迎合してんじゃないの」とかウソみたいになってくるし。とにかく一度自分でも足を止めたり、音楽から離れたり、もしくは住んでいるところを変えたり、自分の知らない国に行ってみたり。そういうことでドカタでもやって、何かイチから得ないとダメなのかもしれないなって思いかけていた時に、地震があったんです。
奇しくも地震があったことやその支援活動でみんなが問われたじゃないですか。生き方も問われたし、自分の職業で何ができるんだろうって問われたし。それで、自粛という名の下でただ黙って一緒に悲しむフリして何の役にも立たねぇ人達の中で、自分も色んなことに関して自問自答したんです。実践として(支援活動を)やっていく中で「偽善者」って言われて、偽善と善の違いは何だろうとか、売名って言われて、じゃ売名と名を売るいいこととの違いは何だろうって。自分がもしかしたらミュージシャンとして、表現者として、ちゃんと付き合ってなかった問題に付き合っちゃったんですよね。奇しくも。それは音楽じゃなくて、支援活動を通じてのことでしたけど。
その中で最終的に、「俺はこういうことしたいな」って思った答えが音楽だったし、バンドだった。俺バンドやりてえって、捨てようとしてたけど。そっから…もしかして初めて一所懸命やってるんじゃないかな、音楽を。今までももちろん、その都度すべて出しているつもりではいたんだけど、今考えれば思いっきり振り向いてはなかったんじゃないかなと思えることの方が多い。やっぱり思いっきり全てをひっくり返すためにも技術がいるんだろうなと。全てが、ベストを尽くすための技術が俺は足りなさすぎるなと思って。
今まではどっちかっていうとバンドの生き様というか、そういうものにばかり憧れていた。どっちかといえば音楽よりスタイルとしてのバンドが俺は好きだったんです。今まで楽譜も読めなければコードもわかんないし、歌もうまくねぇ。ワサーってやっちゃえばあとはウェーイって投げちゃえばいいみたいな、甘く見てたところもあるんですよね。でもそうじゃなくて、歌を歌って、何かを感じてもらいたいんだな俺はって、支援活動で身体を動かしながら、そう思うようになった。もちろん支援活動はやりがいもあったし、もちろん今からもう1回やれって言われたらやります。でも最終的にどういう風に役に立ちたいなっていったら、やっぱり歌を歌いたいなというか、バンドでもう一回、このぐちゃぐちゃになって崩れ落ちてしまった街に歌いに行きてえなっていうのを自分で思ったんです。震災前に1回自分は死んだので、というか死んだと思ってもう1回色んなことをゼロからやってみようかなって思わせてもらった。震災で助けてもらったのは実は自分だって…奇しくもね。
「もう復興してるでしょ」みたいに言う人いるけど街見てみ、何もないよ
ーそうだったんですね…。では、意識を変えるきっかけになった震災後と復興支援に関して訊かせてください。まずはTOSHI-LOWさんも携わる「幡ヶ谷再生大学」など、現在の支援活動について状況をお伺いしたいのですが。
幡ヶ谷再生大学は、その都度要請を受けたりする中で、できるだけそっと寄り添ったり、無理やりこじあけたりっていうのを、ちょっとずつ色んなことをしています。今は公園作りをしているんだけど、作っていたら近隣に盛った土が流れたり、挨拶来ていないって近所から言われて謝りに行ったり、大変なこといっぱいある。でも最終的にやっぱそこに関われるし、被災地もそれ以外の人としゃべれるっていう。
2年半経った今、(被災地が)本当に忘れ去られてしまっているでしょ。オリンピックとか言ってるけど東北どうしてんだよって話で。だったら東北でやれよ、安全なら福島でやれよって俺は思っているんですけど。
誰が忘れてもいいんですよ。でも、俺は絶対忘れないし、俺の周りのやつらも多分忘れない。そのために何をしていくかっていったら、話をしていくことだし、公園作りで一緒に行くこともあるだろうし、米作りすることもある。それを永遠続けてくしかない。最初から長い闘いだっていうのはわかっていたから、瞬間的な支援物資持って行くのがずっと続かねぇなってわかってたので、自分達のやれる形で長く携われるにはどうしたらいいかなってことで、早めに長い闘いの布陣としてNPOを立ち上げた。
今やっと当時の話を吐露できるようになったっていう人達がいっぱいいる。その時の様子、流された娘がその前日に何をやっていたのかとか、自分の息子が誰かに告白してその返事を待っていたとか、そういう話をしてくれるんですよ、今。公園を作りに行く時に地権者のところに地元の人と挨拶しに行って、そこで親方が話をしだしたんです。震災の10分前まで奥さんと一緒に市役所にいた、自分が確定申告を先に終えたから先に出たら波が来てこうなった、あと10分早かったらな…って。近所の人はそんな話知ってると俺は思っていたんだけど、横の人が泣いてるわけ。そこで「あぁ、今やっと言えたんだ」って気付いて。
そういうの言えなかったんだよ、2年間ずっと辛くて。近所付き合いの中でもそういうのがある。そういうの聞いてると、「まだこれからなのにな」って思う。だから、本当に話を聞きに行くだけでいいし。何か話せる話があったら聞かせてくださいって、未来のためにもって、聞かせてもらったらね。いくらでも自分の人生に役立てさせていただけることがあると思っているんだけど。
「もう復興してるでしょ」みたいに言う人はいるけど、街見てみ、何もないよ、ただのサラ地なんだよ。東北ライブハウス大作戦だと「そんな人が来ないところにライブハウス作って」みたいな批判もあるし。「偽善者野郎どもが」、みたいな話もいくらでも出てくるんですけど。でも、そういうこと言うのはだいたい来てない人ばっかりですから。それはもうわかってる。復興しても何もしなかった奴らが言ってるんだなっていうのも知ってるし。でも、俺もさっきのアレじゃないですけど、力になるし広げたい。自分達が先導してやっちゃうと、入りづらくなっちゃう人もいるからライブハウスも、パンク・ハードコア系なんで、とかじゃなくて。せっかくのハコなんだから、落語の人が使ってもらってもいいし、ポップスみたいな人が来てくれてもいい。色んな人に頼むのタダだから頼んでみようと思って、こないだもフジロック出演者の楽屋に行ったり。
写真は2013年9月11日撮影の岩手・陸前高田市街。瓦礫が撤去された今も建物や線路のすべてが無くなったままだ。
ー2年経ってNPOが立ち上がり、ライブハウスは3店舗。そして現地とのパイプというかフォーメーションが組めたけれど、まだまだ…?
遅い早いは関係ないと思うし、ジャンルも関係ないと思っている。だからもし時間があるんだったら今からでもいい。何もしなかったなっていう後悔を隠しながら一生生きるよりは。福島に使ってもらいたい森があるって言われていて、石巻が終わったら今度はそっちの方もやっていこうと思っている。福島みたいな複雑な問題があるところでどれだけの公園が作れるかわからないけど、自分達の安全性と各自の責任を追いながら、自分たちが見える道を探していこうかなと思っていて。俺らみたいなチンピラでもこんだけできるんだから、本当は普通の人とか、普通の企業とか、普通の国が本気出したら、本当は色んなことできるはずなのにね、って思うんだけど。
「もういいよ来なくて」って言われたら嬉しい
ーこの支援のゴール、って具体的に何か考えているのですか。
「もういいよ来なくて」って言われたら嬉しいなって思う。「あんたらうっせーから来なくていいよ」って言われたら(笑)よかったーって。でもね、そうなんないでしょうね。
幡ヶ谷再生大学はもともと遊びのサークルで。バイクでどっか行こうぜとか、富士山登ろうぜ、とかってTシャツ作って遊んでたんですよ。その自分達の遊びも本気でやっていくと、結局役に立つんだなって。みんな大人が集まって何かをする、車に乗ってどっか行くっていうのも、そういうことが全て、支援物資運ぶ時でも、誰に何しろって言ってるわけじゃないのに、窓口ができて、中で物資を仕訳けするやつがいて、っていうのが、普段自分達のライブハウスで普通にやっていることをライブハウス以外で役立てることが結局できるんだ、支援活動って難しい名前のこともできてしまうんだって。すごく自分達も目からウロコというか。難しいと思っていたことが…もちろん難しいんですけど現実は、でもちょっとした工夫があったから役に立ったというか。自分達の機材車とか友達が持っていたトラックとか全て役に立ったし。だから、ずっと自分の色んなこと探しているつもりだったのに、すごい手のひらに答えがあったというか。
ー支援活動とバンドマンである自分と住み分けはあるのでしょうか。
昔はすべて住み分けていたけれど、今はないですね。分けちゃったら、フジロックと災害を切り離しちゃったら、さっきの話も成り立たないし。キャンプの技術って他の場面でも役に立つと思いますよ。地元のおっさんと呑むことでも大事なことが頭の中に入ってくるし、ライブだってそう。結果役に立たないものはひとつもない。切り離したらもったいな過ぎるなって。
「売名」とかボロカス言ってくる人いますよ。でも一緒に一日泥だらけで働いてみたら、それはどうかってわかる話で。初めの2ヶ月くらいで慣れましたよ。後は自分の腹のくくり方だけ。人間だから全てに傷つかないことはないけども、そんな傷ついた、傷ついたっていうことより、前に進んでいく大事さの方が自分にとって大事だし、そのために強くなきゃいけないと思っている。強くするにはどうするべきかってことを考えていけば、必然的に答えが見つかってくるし、弱いところは淘汰されて本当に筋道が立ってくる。そうすれば、ちょっと前に悩んでいたことって何だったんだろうっていつも思うじゃないですか。やっちゃえばよかったんだってことばっかりだから。行動しない思想はないですね。(了)
インタビューは以上です。
フジロックで彼のMCを書き起こし、そしてこのインタビューを行ったことをきっかけに、実際に私も東北へ行きました。その時に撮影した写真を記事中で使用していますが(他の写真はテキストとともに自分のFacebookにアップしています)、2年半も経っていまだ何もない…というより何もなくなってしまった湾岸部の景色に絶句するほかありません。報道やネットを通じて知った気になっていた情報と事実があまりにもかけ離れていて、復興ということがどれほど途方も無い作業なのかをようやく痛感しました。
この取材後に2011、12年のAIR JAMの意思を継ぐ「東北ジャム」開催が発表されました(チケットは完売)。時間がどんどん経過し、記憶がどんどん風化していく中で、音楽と支援を兼ねたアクションをアーティストが続けています。そういったイベントを通じ、もっと多くの人があの日とこの現状を思い出し、支えるきっかけを今一度見つけてくれればと私は思ってやみません。
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取材・文・写真(風景):本人(@biftech)
写真:深野輝美