ホワイト・ステージのプロデューサー、スマッシュの山本氏に訊く
- 2012/07/13 ● Interview
今年のフジロック・フェスティバルまで二週間を切り、胸が踊る季節になってきましたね。「再来週の今頃は…」と仕事が手につかない、テスト勉強が捗らないなんて方、多いのではないでしょうか。
さて、去る今年の三月上旬、フジロッカーズ・オルグの発起人で音楽ジャーナリストの花房浩一をインタビュアーに、お酒を呑み交わしながら、ホワイト・ステージのプロデューサー、スマッシュ山本紀行氏のインタビューを行ないました。山本氏がフジロックに懸ける熱い思いを語ってくれたインタビューは四時間超。そのインタビューの内容をギュッと凝縮しておおくりします。
すべての始まり、第一回フジロック
― まず、フジロックの始まりである、第一回フジロックについて話をしてくれました。山本氏はスマッシュ・ウエストの立ち上げ以前からスマッシュに携わり、数年を経た時にフジロックの構想を耳にしたそうです。
ロラパルーザ(アメリカで開催される野外ロック・フェスティバル)の日本版の話があったのですが、そんなものではなく、日高さん(スマッシュの社長でありフジロック主催者)の言葉にあったように「自分たちの名前を背負ってやりたい」と思っていました。当時はまだペーペーだったので、日高さんから直接聞くなんてことはありませんでしたけど。
― フジロック初年度の97年、現場で担当していたのはレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン。当日にフジロックの会場、富士天神山スキー場入りという強行スケジュールでした。
96年のツアーがキャンセルになり、それを補うツアーがあったんです。僕、レイジが大好きだったのでツアーの担当になって、大阪から東京と巡ってフジロックに行きました。会場に入ったら、朝から雨が降っていたのに、Tシャツと短パン、スニーカーに雨合羽で来ているお客さんがたくさんいて、「そんな恰好絶対あかんよ」って思いましたね。ついつい車の窓を開けて、「大丈夫ですか?」と聞いてしまったくらい。僕たちは、さんざん会社から言われていたので、雨風をしのげるようにたくさん着込んで行っていましたからね。しかし、あんな大荒れの天気になるなんて思ってなかったですよ。
― 雨は止む様子もなく、勢いは増すばかりでした。観客は去年のクロージングアクト、ザ・ミュージックのロブが言うところの「マジヤバイ、マジヤバイ」をはるかに超える盛り上がりに。
観客のパワーが爆発していて、曲の盛り上がりが「すごいぞ、すごいぞ」って思いましたね。あと、観客の上に雲が出来ていて。その時の写真を見ればすぐ分かるけど、本当にありえない光景で。ステージ横で観ていると、ステージが揺れるし、ただならぬ雰囲気を感じましたよ。本当にありえなかった。
― レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのライブは物凄かったのでしょう。数々のライブを観てきた花房氏にとっても、フジロックのベスト・アクトになっています。そして、今や伝説化しているレッド・ホット・チリ・ペッパーズのライブへ。
カオスでしたね。会場がめちゃくちゃになっていて、観客の盛り上がりは凄いんですけど、体力が無くなっている人もたくさんいました。だから、急遽、僕もモッシュ・ピットの中に入って倒れている人を救護室に運ぶことになって、何人も抱えて走りましたよ。それに、酸素ボンベが救護室になくて、ステージ脇にあったので取りにも行きました。今考えれば、あのドロドロのところを何往復も走っていたなんて驚きますよね。
― 一般男性と比べて決して大きくない山本氏の体格で、何人もの人を抱きかかえて走り回っていたなんて驚かされますね。酸素ボンベは、ボーカルのアンソニーが使用していたのをこっそり拝借したそうです。ライブ終了後も、お客さんのことを第一に考え行動をしました。
観客をステージに避難させたり、着替えの服をあげたり、足を拭いたりしました。足が汚れていると気分が落ちますからね。それに、お客さんみんながフラフラでした。そんなこんなで招集がかかって、朝4時頃に「明日やめる」と日高さんの口から伝えられた時の本部の絶望感はなかったです。ガクッとなって、終わったと思いました。
― 今でこそ笑いながら話すことが出来ますが、当時は相当まいってしまっていた山本氏。そのまますぐにウィーザーの現場へ行かなければならず、落ち込みながら会場を後にしたそう。
僕、それから一週間程、現場で働いていたので本社に戻れなくて。その間に、クレームやインターネットの掲示板がすごいことになっていたと本社のスタッフから聞いて。もちろん、こっちの不備があったのは認めるし、責められるのも重々承知でしたけど。その後、社内では今後フジロックをやっていくかどうか意見が分かれていましたね。でも、僕は、ここまで言われて引き下がるのは絶対に嫌だと思っていました。気持ちが先行していたので、方法論とかは分からなかったですけど。開催できるのだったら、行ないたい。絶対に続けていきたいという気持ちでした。
― 多くのクレームに対して申し訳のない気持ち、やり場のない気持ちを抱きながらも、フジロックを続けたいという思いが消えることはありませんでした。その気持ちは今でも持ち続け、脈々と受け継がれています。
97年のフジロックがあったからなのかは、分からないのですが、当時から携わっているスタッフも今いるスタッフも僕と同じように、現在に至ってもフジロックにかける熱量やプライドが半端じゃない。ポジションは当時と違っても、それぞれが“自分のフジロック”というものをもって仕事に望んでいますよ。本当にすごいんです。それは、社内の若い人にまでしっかり伝わっていて、少し気を抜いていると「こんなフジロックでいいのですか?」と彼らから言われることもあります。もちろん、スタッフ内で意見のぶつかりはたくさんあるけれど、ありがたいことですね。
フジロックのレジェンド、ジョー・ストラマー
― 初年度のフジロックは、山本氏にとって忘れることのない出来事となっているのですね。そして、ジョー・ストラマーについて語ってくれました。なぜ、ホワイト・ステージのプロデューサーのインタビューで、ジョー・ストラマーの話が出てくるか?と、疑問に思う人も多いと思います。でも、先に述べた97年の第一回フジロックで、山本氏が雨をしのぐために観客をステージに上げて、足を拭いたりしているとき、驚く出来事が。
僕の隣でジョー・ストラマーも一緒に観客の足を拭き、着替えを渡していたんですよ。だから、ジョーに足を拭いてもらった人がいますよ。始めは、一緒に外国のスタッフがやってくれているものだと思っていたんですけど、冷静になってその時を思い出してみると、きっとジョーだったんですね。ジョーに足を拭いてもらっていると気付いている人がいたら、その人は他の人より余裕があるお客さんだと思いますけれど。フジロックの象徴は、忌野清志郎さんとジョー・ストラマーです。
― 97年のスペシャルゲストとして呼ばれていたジョーは、本来、アーティストであり、上記で述べたことを一切しなくてもいいはずですが、誰かに頼まれることなく自分の意思で行動をしました。これはまさにフジロックの掲げる、「Do It Yourself」、「助け合い」の精神ではないでしょうか。ジョーのフジロックにまつわるエピソードは事欠きません。パレス・オブ・ワンダーを始めるきっかけになったのもジョー。それは、観客として00年のフジロックにやってきた時のことです。
ジョーは今のパレス・オブ・ワンダーがある場所で、ライブは全く観ないでずっと旗を作っていましたね。カラオケもしていましたよ。けど、イアン・ブラウンを始め、出演バンドの人はジョーに挨拶しに来る。すごいですよね。グラストンベリーでジョーと過ごしたときも、ずっと旗を作っていて、ここでもライブは観ないんです。ジョーはフェスティバルの遊び方を教えてくれましたね。
― 読者の方でジョーとカラオケをしたラッキーな人もいるのではないでしょうか。フェスティバルとはなにか、をジョーはフジロッカーにも教えてくれたに違いありません。2009年には忌野清志郎さんのトリビュートがあったのだから、いつの日かジョー・ストラマーのトリビュートもフジロックで観てみたいですね。
ホワイト・ステージのプロデューサーとして
― さて話は戻りまして、山本さんは、豊洲のフジロックからホワイト・ステージ(以下ホワイト)に配属され、苗場に移って2~3年してからホワイトのプロデューサーになりました。ホワイト・ステージのプロデューサーとして考えることはどんなことでしょうか。
ブッキングをする際にまず考えることは、ホワイトのコンセプトとして、アゲインスト・グリーン・ステージ。グリーン・ステージと相対するには、何がかっこいいかを大切にして、同ジャンルの音楽をぶつけることは避けるようにしています。
― アーティストのブッキングの仕方はどのように進められるのでしょうか。
(ホワイトの)ヘッドライナーは、その年のフジロックが終わってから話を始めます。ヘッドライナーが確定しないと、ステージの流れが決まらない。その後、他のバンドを決めていきます。「こんな感じのいいバンドありますか?」と年末から1月、2月の間は社内やいろんな人に聞いていますよ。「これはかっこいいからやろう」って僕が単独で決めてしまうこともあります。あと、日高さんから言われるバンドもありますね。毎回、日高さんから勧められたバンドがすごくて、イラッとしますけど(笑)。もちろん、『Twitter』などで、お客さんの声もチェックしています。楽しんでもらうためにフジロックを開催しているので、お客さんが希望するアーティストが出て、観に来てくれればいいなと。フジロックのことを考えてブッキングしたアーティストに、お客さんが入ってなくて、「あれっ?」となることもありますけど。
― グリーン・ステージはメインストリームで、レッド・マーキーは新人バンド、オレンジ・コートはワールドミュージックとステージの特徴があります。具体的にはどんなアーティストがホワイトで演奏するのでしょう。
ホワイトは、オルタナティブなものというか、それぞれのジャンルの中でとんがっているアーティストに演奏してもらいたいと考えています。特にこういったジャンルがいいというのがあるわけではなくて。去年はホワイトで、ファンク・バンドが演奏していますよ。
― 演奏といえば、フジロックではバンドの演奏がよくなる、フジロック・マジックについても。
フジロックにいると、すごいと思う瞬間が毎日あります。「このバンド、こんな出来るのか」とか、ベテランのバンドを観て、「やっぱり違うなぁ」と思ったりしますよ。海外のバンドには、「観客のリアクションがすごくいい」とか、「地元で演奏しているみたいだ」とよく言われますし。「二度と出ない」なんて言われたアーティストはいません。ただ、「遠い」とは言われる。アーティストがフジロックのことをしっかり分かってくれているとか、フジロックだからアーティストが来てくれるとか、そういうのを作っていきたいですよね。
― アーティストのことをしっかり考えているのがよく分かるお話がこちら。
日高さんから、「時間がないからって30分、40分の演奏時間はないだろう」って言われたことは忘れないようにしています。バンドが何時間も飛行機に乗って、フジロックまで来ていて。若いバンドだと、空港からそのまま苗場まで、車で移動することもあるんですよね。とても疲れるので、申し訳ないんですけど。で、新人バンドはアルバム1枚だけということが多いから、結果的にタイムスケジュール内で収まったりするんです。でも、フジロックでアンコールがかかって演奏していいのは、ヘッドライナーのバンドだけじゃないんですよ。どの出演者も、お客さんからアンコールがあればやっていいんです。アンコールがあって時間が押したら、スタッフがなんとかしますから。僕たちが頑張ればいいだけの話なので。スタッフみんなのフジロックに対するモチベーションが高いから、押した分をすぐ取り戻してくれます。
― 目が向けられているのはアーティストだけではありませんよ。お客さんにも、きめ細かく目が向けられています。
苗場に来てから若い人たちはもちろん、昔、音楽が好きだった人たちにも来てもらえるように、ZZ・トップやニール・ヤングなどのブッキングをしています。そういうアーティストを目当てに、一日だけでもいいから苗場に来てほしいですね。目当てのアーティストが演奏するまでの空いている時間も、うまいこといい音楽にあたってほしい。2、3曲でも演奏を観てくれたら、こっちとしてはラッキーです。フジが終わってから職場で、「フジロックっていうのがあってさぁ」と他の人に教えてくれれば幸いですね。
― 最後に今年のホワイトの構想についてはどのような考えがありますか。(アーティスト発表前に取材をしております)
今年はヒップホップ的な日を作りたいです。ここ数年、ヒップホップをやれていなかったので、今年は頑張ってできるいいなと。あと、ダンス・ミュージックを中心とした日と、ロックを中心とした日もあるといいなと思っています。全体に、ハイブリットな感じを出せるようにしたいです。思いのほか、出演してもらえると思っていたアーティストがダメになったりしたんですが、楽しみに待っていてほしいですね。
以上でインタビューは終了です。みなさんお楽しみいただけましたでしょうか。
ホワイトに出るアーティスト、みなさんが気になるものはありましたか?どのアーティストも山本さんが100%自信をもっているアーティストなので、観ておかないと後悔しますよ!
対話/花房 浩一
文/小川 泰明
写真/Fujirockers.org
インタビュー写真/深野 輝美